ホラー映画が好きです。
「ホラー映画が好きです」
そう言うと高確立で「ああ、リングとか呪怨みたいに幽霊が出てくるやつね」と理解される。確かに、好きか嫌いかで言えばそういう映画も好きな部類である。
でも、ホラー映画は幽霊だけの舞台ではない。私が好きなのはホラー映画の中でも「スラッシャー映画」とされる種類の映画だ。簡単に言えば「殺人鬼大暴れ映画」だ。
誰しもが知っているところで言うと、例えば「13日の金曜日」や「エルム街の悪夢」がそれに当たる。ジェイソンやフレディといった化け物が次々に若者を殺していく、それを見て楽しむ。
私が好きなのは「ハロウィン」シリーズの殺人鬼、ブギーマン。上の画像はオリジナルのジョン・カーペンター版だが、新しくリメイクされたロブ・ゾンビ版のハロウィンが特にお気に入りだったりする。
ハロウィンの夜にブギーマンと呼ばれるマスクで顔を隠した大男がずんずんと迫ってくるのは恐ろしい。でもかっこいい。
こういったタイプの映画を好きな人は誰しも経験済みだと思うが、なぜか「どうしてそういう映画が好きなの?」という愚問を度々投げかけられる。
「人が死ぬのを見るのが好きなの?」「血を見るのが好きなの?」「人が苦しんでいるのを見るのが好きなの?」
私からすれば、これらの言葉はどれも間違っていてどれも正しい。
私が映画を見る理由の一つは「現実では見れないものを見せてくれるから」だ。現実ではお目にかかれないようなイケメン、絶対に体験できないような人生、ありえないアクションの連続。ホラー映画に出てくる殺人鬼もそのうちの一つだ。
「人が死ぬのを見るのが好きなの?」
勿論好きだ。でもそれは映画、フィクションの中での話。現実に目の前で人が死んで喜ぶはずがない、そんなの当たり前過ぎて言うまでもない。ホラー映画が好きな人がみんな現実にも人が殺されるところを見たい、もしくは自分でやりたい、と思っていると考える人がいるならそちらの方が現実とフィクションの区別がついていないのではないかと思ってしまう。
もっと言えば、ホラー映画は実に教育的だと言うこともできる。
ホラー映画に登場するのは大抵バカな若者だ。
これは2013年に公開された「キャビン」の登場人物だが、この映画の性質上、実に的確にホラー映画に必要なメンバーを集めてくれている。
ホラー映画でまず最初に殺されるのは金髪のビッチ。必然性もなくセックスシーンが出てきたら、次の瞬間には刃物を持った殺人鬼がどこからともなく現れてあっという間に殺される。
ホラー映画で生き残りたいのなら守るべき約束がある。「セックスするな」「ドラッグをやるな」「ホームパーティーで馬鹿騒ぎするな」「人の敷地に無断で立ち入るな」これだけ守れれば大抵は大丈夫。(これら全て破っても最強のカード「処女」があるがそれは今は置いておく)
私だって、全ての映画の残酷シーンを喜んでいるわけじゃない。娯楽として提供されていることが前提の残酷シーンだから素直に楽しめる。それに、ホラー映画に出てくる過剰なまでの残虐シーンだって暴力や殺人を肯定するものじゃ当然ない。
暴力はよくない。それを伝えるには暴力を見せるしかない。しかも凄惨に、痛々しく、現実的に描かないと意味がない。適当な暴力描写は逆効果だ。
ある日本の映画の中に、私の大嫌いなシーンがある。その映画の登場人物は「人はそう簡単に死なねえよ」そう言って金属バッドで人の側頭部をぶん殴るのだ。
アホか!死ぬわ!
こういうセリフを簡単に言わせる神経が信じられない。このセリフを考えた人は当然だが金属バッドで殴られたことも殴ったこともないんだろう。それなのにそんなふうに分かったような口を叩く奴、心底腹が立つ。暴力描写において、中途半端は悪だ。過激なくらいがちょうどいい。
私がよく考えるのはこの映画のセリフとは全く逆だ。つまり「人は簡単に死ぬ」
ホラー映画の中ではびっくりするほど簡単に人が死ぬ。でも現実に人は必ず死ぬ。ただそれは現実では目を逸らしたい問題だ。だから私はホラー映画を見る。なぜなら現実では見れないものを見せてくれるのが映画だから。
理解してくれとは言わないのに、なぜか自分が正しいと疑わない顔で「そういう映画を見るのは悪趣味だ」と罵ってくる輩がいる。
それならば言わせてもらうが「現実には起こらないものを見て楽しむ」ということではどの映画も同じだ。それなのにそこに暴力や人の死が絡むと途端に非難の対象になる。
私からすれば「平凡な女子高生が実は王家の血筋」だとか「冴えない女子がイケメンにモテモテ」だとかそういった映画の方が非現実的だし恐ろしい。
「殺人鬼が次々に若者をぶっ殺す」のも「男女の運命的な恋愛」も、私の中ではフィクションという同じカテゴリーに属している。どうせ同じフィクションなら過激で面白いものが見たいじゃないか。そうだろう。
だから私はホラー映画を見る。