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バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)感想

  

 バードマン鑑賞してきました。前評判がとてもよく、期待値も高かったのですがとても楽しめました。テンポのいい話運びに個性豊かなキャラクターたち、それを更に勢いのある音楽とカメラワークで一気に見せてくれます。

 普通に見ていても楽しい映画だったのですが、ほとんどの人がそうだったように、映画が終わった後に疑問が残りました。その疑問に関して、自分なりに思うところや考えることがあったのでまとめてみようと思います。

 自分の考えをまとめるためのメモのようなものなのでネタバレ全開です。ラストにも触れています。まだご覧になっていない方はご覧になってから読んで頂くことを推奨します。重ねて、これは私の個人的な考えなので映画の解説ではありません。なので納得できない部分も多々あるかと思いますが、ご意見は優しい言葉で頂けるとありがたいです。

 

 

 

リーガン・トムソンの持っていた超能力は本物なのか。

 

 リーガン・トムソンは一人でいるときしか超能力を使っていません。つまり、彼が本当に超能力を持っていたと証明するものは何もありません。

 結論から言うと、私は超能力の有無は問題ではないと考えました。

 プレビュー最終日、トムソンが煙草を吸うために扉の外へ出たら締め出されガウンが挟まれてしまうシーンがあります。彼は扉を叩き大声を出し助けを求めます。本当に超能力があるなら彼はここで何故扉を開けることができなかったのでしょうか。

 このシーンだけでトムソンは超能力を持っていないと決めつけることは出来ないかもしれません。でも、彼の超能力がいざというとき全く役に立たないことは分かります。

 また、彼が空を飛んで建物の屋上から劇場へ舞い戻るシーン。ここは空を飛ぶ彼を誰も見ていないこと、彼が本当はタクシーに乗って来たことが分かることから彼に空を飛ぶ能力はないと考えられます。

 ならば、超能力は彼の妄想なのでしょうか。そうだったとしても、そうでなくても、誰の目に止まらない能力に意味はありません。トムソンが特別な能力を持っていたとしても、彼以外の誰もそれを知らないのでは無いのと同じです。

 これはトムソンに限らず、この映画の中で話題になるヒーローたちも同じです。アイアンマンはどんなに素晴らしいスーツを持っていても、ソーは雷の神様であっても、キャプテンアメリカは超人類であっても、その存在を人々が認識しなければヒーローはいないのと同じなのです。

 彼は自分の中にヒーローを持っていて今もヒーローであろうとしている。その気持ちが超能力として現れているという考え方もできると思います。ただ、やはり誰も彼の力に気付かないのなら無意味です。

 ヒーローがヒーローであるためには彼らを求める大衆の目と声が必要です。それを失ったトムソン、バードマンは超能力の無有に限らずもはやヒーローではない。トムソンの持つ超能力はそれを表す役割なのではないかと考えました。

 

 

あのラストシーンの意味。

 

 「銃を変えろ」と言うあからさまな伏線のセリフ通り、トムソンは舞台で本物の拳銃を自分に向け発砲します。そして、そこでこの映画が始まって初めてカットが切れます。意味ありげな風景が映し出され、映画はまたカットの前と同じように動き出します。

 トムソンが放った銃弾は頭ではなく鼻を吹き飛ばしたに留まっていたことがここで分かります。彼は自殺に失敗したのか、それともわざと鼻を吹き飛ばしたのかそれは語られません。しかし、私はトムソンは自殺したのだと思っています。銃弾は彼の頭を貫き、トムソンは死んでいる。カットがかかったその瞬間バードマンの映画は終わっているのです。

 ではトムソンが生きていたという病室のラストは何なのか。これは大衆が求めている物語のラストです。

 私たちは映画が始まってからずっと喜劇として映画を見ています。そしてこの男がいくら駄目だと言っても、最後には劇を成功させ俳優として父として愛を取り戻すはずだとそう思っています。しかし、物語が進むにつれ話は観客が予想していたものとは違う方向へ向かいます。そして最後にはトムソンは誰の愛も得ることができないまま自暴自棄になって自殺します。

 ここで観客の私たちに残るのは罪悪感です。最悪の悲劇を喜劇だと思い笑って見ていたこと、または現実でトムソンのような男を笑ったことのある罪悪感。ただ、映画自体には続きがあります。

 トムソンが生きていて世間の関心を得て妻と娘の愛を得る。私たちの前に広がるのはまさに映画が始まって私たちがまず予想し求めたラストだったのではないでしょうか。中盤でバードマンがトムソンに囁く「観客が求めてるものを考えろ」というセリフもここにかかっています。しかしこのシーンには不自然な点もあります。

 まず、大衆が悲しみの表情でロウソクに火を灯していること。新聞の見出しが映画のタイトルと同じなこと。娘がトムソンの好きな花を供えていること。鏡に映る彼の分身のバードマンが悲しげに俯いていること。周囲のこの行動から見て、やはりトムソンは既に死んでいると捉えることが出来ると思います。

 

 トムソンが愛されなかった理由、それは彼がバードマンを捨てることができなかったからです。彼は舞台の上で自殺して初めて大衆と家族の愛を取り戻し、バードマンのお面を取ることができました。吹き飛ばした鼻を整形したため顔が変わっています。俳優の顔が変わるということはどう言う意味を持つでしょうか。トムソンは俳優であるリーガン・トムソンからも解き放たれたという意味だと思いました。

 バードマン、トムソン、その二つから解放され外を眺めたとき、彼は初めて外の景色を見て清々しい気持ちになることが出来たのです。

 見る人によって喜劇とでも悲劇とでも捉えられるこの映画は、主人公のトムソンにとっては最初から最後まで愛についての物語だったのだと思います。